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家庭用脱毛器を使って自分で脱毛

夏が近づいてきて薄着になることが多くなってきましたね。
そうなると気になってくるのがワキ毛などのムダ毛です。
今の時期に電車に乗るとエピレやC3、ミュゼなどの脱毛サロンの広告がすごいですが、脱毛は自分でやることもできます。
セルフでのムダ毛処理といえばカミソリで剃ったり、除毛クリームを使ったり、ブラジリアンワックスを使ったりと様々な方法がありますが、家庭用脱毛器を使ったセルフ脱毛がおすすめです。
おすすめの脱毛器はずばり「ケノン」という家庭用脱毛器です。
照射範囲が広いフラッシュ式と呼ばれる方式の脱毛器で、家庭用脱毛器の中ではとても人気がある機種です。
しかし、街の家電量販店では自分は見かけたことが無いので、おそらく通販専門の商品だと思います。
それでも人気があるのは確かで、楽天市場でも脱毛器ランキングの上位常連です。
楽天のレビューもたくさん入っていて好意的なレビューが多いです。
ネットのレビューというと業者のサクラレビュー(自演レビュー)を心配する人もいるかもしれませんが、ケノンにはかなりの数のレビューが入っているのでそういうのを差し引いて考えたとしても高評価といわざるを得ません。
何よりも売れ続けているというのは事実ですからね。

ケノンが一台あれば面倒なサロン予約をする必要もないですし、サロンは恥ずかしい、高額な脱毛コースに勧誘されるのが心配といった人でも自宅でのんびりと自分で脱毛できます。
人気のサロンは夏になるといつも予約でいっぱいで予約自体が取れないという話もよく聞きますし、そういったわずらわしさから解放されるのはうれしいですね。

一台のケノンで夫婦や親子で、家族みんなで使っているという人もいるみたいです。
ケノンの場合カートリッジと呼ばれる部品があり、その部品だけは1万発とかを使い終わったら新しいものと交換する必要があるのですが、カートリッジは数千円で買えますしサロンで何か所も脱毛するのに比べれば安く済むはずです。
脱毛はワキだけでいい、みたいな人はミュゼなどの激安キャンペーンで済ますのもいいと思いますが、いろいろな個所を脱毛したい場合にはケノンの方が安く済む場合もあります。
自分で脱毛をするのなら、ケノンをおすすめします。

参考サイト:http://xn--88j1azh830msuucfidwbgv2frmb.biz/

20代におすすめの格安レディースファッション通販サイト

20代女性とひとことで言っても20代前半だとまだ学生の人が多く、20代後半だと働いている人や主婦の人が多いのではないでしょうか。
学生と社会人・主婦だとファッションの好みも多少は変わってくると思います。

20代前半の大学生や専門学生などの女子学生におすすめの通販サイトがGRL(グレイル)というショップです。
扱っているファッションの傾向としてはとにかく今流行しているファッションといった感じで、値段がとても安いのも特徴です。
特にファッションの系統にこだわりはないけど安くて可愛い服が欲しい、という20代前半の人にはGRL(グレイル)がおすすめです。
ちぃぽぽちゃんや宮田聡子ちゃん、藤田杏奈ちゃんといったモデルさんたちによる着こなし例の写真もたくさん用意されているので、せっかく服を買ったのに合わせ方がわからないということになりにくいです。
紹介されているコーデを丸ごと真似してしまってもいいと思います。

それと、これからの季節の夏祭りや花火大会といったイベントで活躍するのが浴衣です。
GRL(グレイル)も毎年浴衣を販売していて、かなり人気があるみたいです。
浴衣の柄はたくさん用意されていますが、当然人気の柄から売り切れていってしまいます。
今年は浴衣・帯・下駄の3点セットで3999円(税込)です。
もうすでに今年の浴衣は続々と入荷されているので、気になる柄があったら売り切れる前に早めに確保しておくことをおすすめします。
関連サイト:GRLは10代、20代向けの安くて可愛い服が買えるショップ

次に20代後半の女性向けショップを一つ紹介します。
soulberry(ソウルベリー)というお店です。
ファッションの系統としては大人向けの可愛いナチュラル系、カジュアル系という感じの服が多いです。
もちろん20代前半の人が着ても全然おかしくないのですが、30代や40代の人にもとても人気のあるショップです。
ナチュラル系やカジュアル系なのでOLさんの通勤服や仕事着に向いていそうな服はあまりないのですが、私服によさそうな大人可愛い服がたくさんあります。
大人向けショップでありながら値段が安いのも魅力のひとつです。
ネットで評判を調べてみるとリピーターになっている人も多く、服はほぼsoulberry(ソウルベリー)で買っているという人もいます。
季節によって面白い企画が発表されたり送料無料セールなども時々やっていて、お客さんに飽きさせない工夫がされているショップです。
関連サイト:20代向けの安くて可愛いレディース服通販サイト

和辻 哲郎 3

 ロシアの都へ行く旅人は、国境を通る時に旅行券と行李とを厳密に調べられる。作者ヘルマン・バアルも俳優の一行とともに、がらんとした大きな室で自分たちの順番の来るのを待っていた。
 霧、煙、ざわざわとした物音、荒々しい叫び声、息の詰まるような黄いろい塵埃。何とも言いようのない沈んだ心持ちが人々を襲って来る。女優の衣裳箱の調べが済むまでにはずいぶん永い時間が掛かった。バアルは美しい快活な少女を捕えてむだ話をしていたが、その娘は何の気なしにこういう話をした。「昨晩私のそばにいた貴婦人がひとり急に痙攣ちゃって、大騒ぎでしたの。そのかたも喜劇を演りにペテルスブルグへいらっしゃるんですって。デュウゼとかって名前でしたよ。ご存じでいらっしゃいますか。」そういってその娘の指さす方を見ると、うなだれた暗い婦人が、毛皮にくるまって、自分の荷物のそばに立っている。初めてこの時ヘルマン・バアルはエレオノラ・デュウゼの蒼白い、弱々しげな、力なげな姿を見たのである。

 岡倉先生が晩年当大学文学部において「東洋巧芸史」を講ぜられた時、自分はその聴講生の一人であった。自分の学生時代に最も深い感銘を受けたものは、この講義と大塚先生の「最近文芸史」とである。大塚先生の講義はその熱烈な好学心をひしひしと我々の胸に感じさせ、我々の学問への熱情を知らず知らずに煽り立てるようなものであったが、それに対して岡倉先生の講義は、同じく熱烈ではあるがしかし好学心ではなくして芸術への愛を我々に吹き込むようなものであった。もちろん先生は芸術への愛を口にせられたのではない。ただ美術史的にさまざまの作品について語られたのみである。しかし先生がある作品を叙述しそれへの視点を我々に説いて聞かせる時、我々の胸にはおのずからにして強い芸術への愛が湧きのぼらずにはいなかった。一言に言えば、先生は我々の内なる芸術への愛を煽り立てたのである。これはあの講義の事実的内容よりもはるかに有意義なことであったと思う。

 蓮の花は日本人に最も親しい花の一つで、その大きい花びらの美しい彎曲線や、ほのぼのとした清らかな色や、その葉のすがすがしい匂いや肌ざわりなどを、きわめて身近に感じなかった人は、われわれの間にはまずなかろうと思う。文化の上から言っても蓮華の占める位置は相当に大きい。日本人に深い精神的内容を与えた仏教は、蓮華によって象徴されているように見える。仏像は大抵蓮華の上にすわっているし、仏画にも蓮華は盛んに描かれている。仏教の祭儀の時に散らせる華は、蓮華の花びらであった。仏教の経典のうちの最もすぐれた作品は妙法蓮華経であり、その蓮華経は日本人の最も愛読したお経であった。仏教の日本化を最も力強く推し進めて行ったのは阿弥陀崇拝であるが、この崇拝の核心には、蓮華の咲きそろう浄土の幻想がある。そういう関係から蓮華は、日本人の生活のすみずみに行きわたるようになった。ただに食器に散り蓮華があるのみでない。蓮根は日本人の食う野菜のうちのかなりに多い部分を占めている。
 というようなことは、私はかねがね承知していたのであるが、しかし巨椋池のまん中で、咲きそろっている蓮の花をながめたときには、私は心の底から驚いた。蓮の花というものがこれほどまでに不思議な美しさを持っていようとは、実際予期していなかったのである。

和辻 哲郎 2

 遠望であるから細かいところは見えないものと承知していただきたい。
 ごく大ざっぱな観察ではあるが、美術院展覧会を両分している洋画と日本画とは、時を同じゅうして相並んでいるのが不思議に思えるほど、気分や態度を異にしている。もちろんそれは文展についても言えることであり、すでに十何年の歴史を負っている事実でもあるから、今さらことごとしく問題にするには及ばないかも知れぬ。しかし僕の遠望観は、ぐるぐると回っている内に、結局この問題に帰着するのである。
 何人も気がつくごとく、ここに陳列せられた洋画は主として写生画である。どの流派を追い、どの筆法を利用するにしても、要するに洋画家の目ざすところは、目前に横たわる現実の一片を捕えて、それを如実に描き出すことである。彼らにとって美は目前に在るものの内にひそんでいる。机の上の果物、花瓶、草花。あるいは庭に咲く日向葵、日夜我らの親しむ親や子供の顔。あるいは我らが散歩の途上常に見慣れた景色。あるいは我々人間の持っているこの肉体。――すべて我々に最も近い存在物が、彼らに対して、「そこに在ることの不思議さ」を、「その測り知られぬ美しさ」を、描かれることを要求する。従って彼らは、いかなる描き方をする場合にも、写実的な態度を失わない。

 歌舞伎芝居や日本音曲は、徳川時代に完成せられたものからほとんど一歩も出られない。もし現在の日本に劇や音楽の革新運動があるとすれば、それは西欧の伝統の輸入であって、在来の日本が生み出したものの革新ではない。それに比べると日本画には内からの革新衝動があるように見える。たといそれが、世界的潮流に乗っている洋画家の努力から見て、時代錯誤の印象を与えずにはいない程度のものであるにしても、とにかく現代人の要求を充たすに足りる新生面の開拓の努力は喜ぶべきことである。
 しかしこの十年来の革新の努力がどういう結果を生んだかという事になると、我々は強い失望を感ぜずにはいられない。美術院の展覧する日本画が明らかに示しているように、この革新は外部の革新であって内部のそれではないのである。

 この問題を考えるには、まず応仁の乱(一四六七―一四七七)あたりから始めるべきだと思うが、この乱の時のヨーロッパを考えると、レオナルド・ダ・ヴィンチは二十歳前後の青年であったし、エラスムス、マキアヴェリ、ミケランジェロなどはようやくこの乱の間に生まれたのであるし、ルターはまだ生まれていなかった。ポルトガルの航海者ヘンリーはすでに乱の始まる七年前に没していたが、しかしアフリカ回航はまだ発展していなかった。だからヨーロッパもまだそんなに先の方に進んで行っていたわけではない。むしろこれから後の一世紀の進歩が目ざましいのである。シャビエルが日本へ来たのも、乱後七、八十年であった。
 応仁の乱以後日本では支配層の入れ替えが行なわれた。それに伴なう社会的変動が、思想の上にも大きく影響したはずである。しかしそういう変動を問題とするためには、その変動の前の室町時代の文化というものが、一体どういうものであったかを、はっきりと念頭に浮かべておかなくてはならぬ。

和辻 哲郎

 中世の末にヨーロッパの航海者たちが初めてアフリカの西海岸や東海岸を訪れたときには、彼らはそこに驚くべく立派な文化を見いだしたのであった。当時のカピタンたちの語るところによると、初めてギネア湾にはいってワイダあたりで上陸した時には、彼らは全く驚かされた。注意深く設計された街道が、幾マイルも幾マイルも切れ目なく街路樹に包まれている。一日じゅう歩いて行っても、立派な畑に覆われた土地のみが続き、住民たちは土産の織物で作った華やかな衣服をまとっている。さらに南の方、コンゴー王国に行って見ると、「絹やびろうど」の着物を着た住民があふれるほど住んでいる。そうして大きい、よく組織された国家の、すみずみまで行き届いた秩序があり、権力の強い支配者があり、豊富な産業がある。骨までも文化が徹っている。東海岸の国土、たとえばモザンビクの海岸においても状態は同じであった。

 秋の雨がしとしとと松林の上に降り注いでいます。おりおり赤松の梢を揺り動かして行く風が消えるように通りすぎたあとには、――また田畑の色が豊かに黄ばんで来たのを有頂天になって喜んでいるらしいおしゃべりな雀が羽音をそろえて屋根や軒から飛び去って行ったあとには、ただ心に沁み入るような静けさが残ります。葉を打つ雨の単純な響きにも、心を捉えて放さないような無限に深いある力が感じられるのです。
 私はガラス越しにじっと窓の外をながめていました。そうしていつまでも身動きをしませんでした。私の眼には涙がにじみ出て来ました。湯加減のいい湯に全身を浸しているような具合に、私の心はある大きい暖かい力にしみじみと浸っていました。私はただ無条件に、生きている事を感謝しました。すべての人をこういう融け合った心持ちで抱きたい、抱かなければすまない、と思いました。私は自分に近い人々を一人一人全身の愛で思い浮かべ、その幸福を真底から祈り、そうしてその幸福のためにありたけの力を尽くそうと誓いました。やがて私の心はだんだん広がって行って、まだ見たことも聞いたこともない種々の人々の苦しみや涙や歓びやなどを想像し、その人々のために大きい愛を祈りました。ことに血なまぐさい戦場に倒れて死に面して苦しんでいる人の姿を思い浮かべると、私はじっとしていられない気がしました。

 私は近ごろ、「やっとわかった」という心持ちにしばしば襲われる。対象はたいていこれまで知り抜いたつもりでいた古なじみのことに過ぎない。しかしそれが突然新しい姿になって、活き活きと私に迫って来る。私は時にいくらかの誇張をもって、絶望的な眼を過去に投げ、一体これまでに自分は何を知っていたのだとさえ思う。
 たとえば私は affectation のいやなことを昔から感じている。その点では自他の作物に対してかなり神経質であった。特に自分の行為や感情についてはその警戒を怠らないつもりであった。しかるにある日突然私は眼が開いた気持ちになる。そして自分の人間と作物との内に多分の醜い affectation を認める。私はこれまで何ゆえにそれに気がつかなかったかを自分ながら不思議に、また腹立たしく思う。affectation が何であるか、それがどういう悪い根から生いでて来るか、それはまるきりわかっていなかったのである。何というばかだ、と私は思わないではいられない。
 そういう時には自分の悪いことばかりが眼につく。自分の理解を疑う心が激しく沸き立つ。「人生を見る眼が鈍く浅い。安価な自覚でよい心持ちになっている。自分で自分を甘やかすのだ。」こう自分で自分を罵る。そして自分の人格の惨めさに息の詰まるような痛みを感ずる。